素因減額とは
「素因減額(そいんげんがく)」とは,事故態様について被害者に過失がない場合であっても,被害者の事情によって被害が発生・拡大した場合には,損害の公平な分担の観点から減額する取り扱いのことをいいます。
素因減額には,心因的要因による減額と身体的要因による減額との2つの場合があるとされています。
心因的要因による素因減額
軽微な事故にもかかわらず,被害者の心理的・精神的要因によって,治療が異常に長引くようなケースでは,加害者に全責任を負わせることが果たして妥当かという問題が生じます。
この問題について,最一小判昭和63年4月21日民集42巻4号243頁は,身体に対する加害行為と発生した損害との間に相当因果関係がある場合において,その損害が通常その加害行為のみによって通常発生する程度,範囲を超えるものであって,かつ,その損害の拡大について被害者の心因的要因が寄与しているときは,民法722条2項の過失相殺の規定を類推適用して,損害拡大に寄与した被害者の心因的要因の事情を斟酌することができると判示しました。
昭和63年判決の事案は,軽微な追突事故でむち打ち症となった女性被害者が,10年以上も入通院を繰り返したという異常なケースですが,最高裁は,事故の加害者の負担を,事故後3年間までに発生した損害のうちの40%に限定しています。
以上の通り,被害者の心因的(心理的)要因によって,損害が発生・拡大した場合には素因減額が認められています。
最一小判昭和63年4月21日民集42巻4号243頁
思うに,身体に対する加害行為と発生した損害との間に相当因果関係がある場合において,その損害がその加害行為のみによつて通常発生する程度,範囲を超えるものであつて,かつ,その損害の拡大について被害者の心因的要因が寄与しているときは,損害を公平に分担させるという損害賠償法の理念に照らし,裁判所は,損害賠償の額を定めるに当たり,民法七二二条二項の過失相殺の規定を類推適用して,その損害の拡大に寄与した被害者の右事情を斟酌することができるものと解するのが相当である。
身体的要因による素因減額
素因減額の対象となる身体的要因(疾患)
交通事故の前は症状がなかったけれども,交通事故をきっかけとして様々な症状が一挙に現れることがあります。
具体的には,椎間板ヘルニア,変形性頸椎や腰椎,後縦靱帯骨化,脊柱管狭窄や分離,胸郭出口症候群,腰椎すべり症等が挙げられます。
これらは,医師が作成する診断書に交通事故を原因として発症したように記載されることも多いのですが,脊柱管の狭窄など,実際は交通事故による外傷を原因として生じない症状もあります。
交通事故の前から基礎疾患があったけれど症状がなく,交通事故に遭ったことで痛みに気づいたり,受診して初めて気づいたというケースが少なくないことから,このような場合でも素因減額の対象となるのかが問題となります。
この点について,最一小判平成4年6月25日民集46巻4号400頁は,加害行為と疾患がともに原因となって損害が発生した場合において,当該疾患の態様,程度などに照らし,加害者に損害の全部を賠償させるのが公平を失するときは,裁判所が民法722条2項の過失相殺の規定を類推適用して被害者の当該疾患を斟酌することを認めました。
そして,最三小判平成8年10月29日民集29巻5号1272頁は,「加害行為前に疾患に伴う症状が発現していたかどうか,疾患が難病であるかどうか,疾患に罹患するにつき被害者の責めに帰すべき事由があるかどうか,加害行為により被害者が被つた衝撃の強弱,損害拡大の素因を有しながら社会生活を営んでいる者の多寡等の事情によつて左右されるものではない」と判示しました。
以上の2つの最高裁判決により,事故前に発症していたかどうか等を問わず,疾患であれば素因減額の対象とする判例法理が確立しています。
最一小判平成4年6月25日民集46巻4号400頁
被害者に対する加害行為と被害者のり患していた疾患とがともに原因となって損害が発生した場合において,当該疾患の態様,程度などに照らし,加害者に損害の全部を賠償させるのが公平を失するときは,裁判所は,損害賠償の額を定めるに当たり,民法七二二条二項の過失相殺の規定を類推適用して,被害者の当該疾患をしんしゃくすることができるものと解するのが相当である。けだし,このような場合においてもなお,被害者に生じた損害の全部を加害者に賠償させるのは,損害の公平な分担を図る損害賠償法の理念に反するものといわなければならないからである。
最三小判平成8年10月29日民集29巻5号1272頁
被害者に対する加害行為と加害行為前から存在した被害者の疾患とが共に原因となつて損害が発生した場合において,当該疾患の態様,程度などに照らし,加害者に損害の全部を賠償させるのが公平を失するときは,裁判所は,損害賠償の額を定めるに当たり,民法七二二条二項の規定を類推適用して,被害者の疾患を斟酌することができることは,当裁判所の判例(最高裁昭和六三年(オ)第一〇九四号平成四年六月二五日第一小法廷判決・民集四六巻四号四〇〇頁)とするところである。そしてこのことは,加害行為前に疾患に伴う症状が発現していたかどうか,疾患が難病であるかどうか,疾患に罹患するにつき被害者の責めに帰すべき事由があるかどうか,加害行為により被害者が被つた衝撃の強弱,損害拡大の素因を有しながら社会生活を営んでいる者の多寡等の事情によつて左右されるものではないというべきである。
前記の事実関係によれば,被上告人の本件疾患は頸椎後縦靱帯骨化症であるが,本件において被上告人の罹患していた疾患が被上告人の治療の長期化や後遺障害の程度に大きく寄与していることが明白であるというのであるから,たとい本件交通事故前に右疾患に伴う症状が発現しておらず,右疾患が難病であり,右疾患に罹患するにつき被上告人の責めに帰すべき事由がなく,本件交通事故により被上告人が被つた衝撃の程度が強く,損害拡大の素因を有しながら社会生活を営んでいる者が多いとしても,これらの事実により直ちに上告人らに損害の全部を賠償させるのが公平を失するときに当たらないとはいえず,損害の額を定めるに当たり右疾患を斟酌すべきものではないということはできない。
素因減額の対象とならない身体的要因(身体的特徴)
一方で,最三小判平成8年10月29日民集50巻9号2474頁は,被害者が平均的な体格ないし通常の体質と異なる身体的特徴を有していたとしても,それが疾患に当たらない場合には,特段の事情がない限り,身体的特徴を損害賠償額を定めるに当たり斟酌することができないと判示しました。
同判決の調査官解説においても,通常の加齢による骨の変性は疾患に当てはまらないと解説されており,歳相応の老化現象による身体的変性は疾患ではなく身体的特徴として扱われています。
したがって,前述の基礎疾患のうち,変形性頸椎や腰椎,頸腰椎椎間板へルニアなど,一般的に老化によってあらわれる症状は,それが年齢相応のものである限り,疾患ではなく身体的特徴に留まるものだとして素因減額の対象外となります。
最三小判平成8年10月29日民集50巻9号2474頁
被害者に対する加害行為と加害行為前から存在した被害者の疾患とが共に原因となって損害が発生した場合において,当該疾患の態様,程度などに照らし,加害者に損害の全部を賠償させるのが公平を失するときは,裁判所は,損害賠償の額を定めるに当たり,民法七二二条二項の規定を類推適用して,被害者の疾患を斟酌することができることは,当裁判所の判例(最高裁昭和六三年(オ)第一〇九四号平成四年六月二五日第一小法廷判決・民集四六巻四号四〇〇頁)とするところである。しかしながら,被害者が平均的な体格ないし通常の体質と異なる身体的特徴を有していたとしても,それが疾患に当たらない場合には,特段の事情の存しない限り,被害者の右身体的特徴を損害賠償の額を定めるに当たり斟酌することはできないと解すべきである。けだし,人の体格ないし体質は,すべての人が均一同質なものということはできないものであり,極端な肥満など通常人の平均値から著しくかけ離れた身体的特徴を有する者が,転倒などにより重大な傷害を被りかねないことから日常生活において通常人に比べてより慎重な行動をとることが求められるような場合は格別,その程度に至らない身体的特徴は,個々人の個体差の範囲として当然にその存在が予定されているものというべきだからである。
これを本件についてみるに,上告人の身体的特徴は首が長くこれに伴う多少の頸椎不安定症があるということであり,これが疾患に当たらないことはもちろん,このような身体的特徴を有する者が一般的に負傷しやすいものとして慎重な行動を要請されているといった事情は認められないから,前記特段の事情が存するということはできず,右身体的特徴と本件事故による加害行為とが競合して上告人の右傷害が発生し,又は右身体的特徴が被害者の損害の拡大に寄与していたとしても,これを損害賠償の額を定めるに当たり斟酌するのは相当でない。
素因減額の判例法理と東京地裁の実務
これまで挙げた判例の内容を整理すると,以下の通りになります。
心因的要因による損害の発生・拡大 | 素因減額可能 | |
身体的要因による損害の発生・拡大 | 疾患(病気) | 素因減額可能 |
身体的特徴 | 原則として素因減額不可能 |
心因的素因
判例を踏まえ,東京地裁においては,おおむね次のような場合に心因的要因を斟酌する考え方が取られていると指摘されています(佐久間邦夫=八木洋一編「リーガル・プログレッシブ・シリーズ5 交通損害関係訴訟[補訂版](青林書院2013年)」211頁)。
- 原因となった事故が軽微で通常人に対し心理的影響を与えるものではない場合
- 愁訴に見合う他覚的な医学的所見を伴わない場合
- 一般的な加療相当期間を超えて加療を必要とした場合
身体的素因
被害者の既往症その他体質に関する事由について,東京地裁においては,おおむね次のような考え方が取られていると指摘されています(佐久間邦夫=八木洋一編「リーガル・プログレッシブ・シリーズ5 交通損害関係訴訟[補訂版](青林書院2013年)」209頁)。
- 事故の前から存在した被害者の疾患が損害の発生又は拡大に寄与していることが明白である場合には,賠償すべき金額を決定するに当たり,当該疾患をしんしゃくすることができる。
- 加齢的変性については,事故前に疾患といえるような状態であったことが認められない限り,しんしゃくしない。当該年齢の人間に通常みられる加齢性の変化ないし個体差の範囲内の加齢性の変化を理由に減額するのは相当ではない。
- 病名が付けられるような疾患には当たらない身体的特徴であっても,疾患に比肩すべきものであり,かつ,被害者が負傷しないように慎重な行動を求められるような特段の事情が存在する場合(たとえば極端な肥満)にも,当該身体的特徴をしんしゃくすることができるが,極めて例外的な場合に限られる。
素因減額割合の判断基準
素因減額の割合は,個別の事案に応じて判断されることから,一定の基準が確立しているわけではなく,過去の裁判例を見ても,減額を否定するものから,90%の減額を認めたもの(東京地判平成15年3月26日交通事故民事裁判例集36巻2号382頁)まで様々です。
この点,鈴木祐治裁判官は,民事交通事故訴訟損害賠償算定基準(通称「赤い本」)2009年版下巻に収録された講演録「素因減額」(交通事故による損害賠償の諸問題Ⅳ 640頁)において,身体的素因の減額割合(心因的素因は同講演録の検討対象外です)を算定するにあたっては,以下のような要素を個別具体的に検討して,損害の公平な分担という損害賠償法の基本的理念の観点からその割合を算定することになるため,具体的な基準を立てることは難しいと述べています。
- 疾患の種類,態様,程度(当該病的状態が平均値からどれだけ離れているか,その病的除去のためにどの程度の医学的処理が必要か,事故前の健康状態(通院状況等))
- 事故の態様,程度及び傷害の部位,態様,程度と結果(後遺障害)との均衡
とはいえ,これまでに医師や弁護士によって素因減額割合の基準化も試みられていますので,ここではその一例として,平成14年に損害賠償算定基準研究会(東京三弁護士会交通事故処理委員会の研究会)が公表した以下の減額基準を参考に紹介します。
心因的要因による減額基準
分類 | 程度 | 減額率(参考) |
第Ⅰ類 | 傷害の部位・程度,事故内容から見て,通常人であっても心因的影響を受けやすい状況にあると認められるもの | 0% |
第Ⅱ類 | 傷害の部位。程度,事故内容から見て,通常人であれば心因的影響をあまり受けないと認められるが,影響を受ける可能性も相当程度認められるもの | 0% |
第Ⅲ類 | 傷害の部位・程度,事故内容が軽く,気質的な要因が相当程度加わっていると認められ,通常人では影響を受ける可能性がないとはいえないが極めて低いもの | 20%~40% |
第Ⅳ類 | 通常であれば傷害をうけるような事故ではなく,受傷当初の傷害の程度が軽く(遅発性の疾病を除く),明らかに被害者の気質的,性格的な要因の関与が認められ,通常人であれば考えられない程度の損害が発生したと見られるもの | 30%~50% |
既往症減額基準
分類 | 程度 | 減額率(参考) |
第Ⅰ類 | 既往症が軽度,一般的なもので障害に対する寄与が極めて軽微であると認められるもの | 0% |
第Ⅱ類 | 既往症の関与が明らかであるが,寄与の度合いが軽微であると認められるもの | 0% |
第Ⅲ類 | 既往症の関与が明らかであり,寄与の度合いが相当程度認められるもの | 20%~40% |
第Ⅳ類 | 既往症の関与の度合いが大きく,傷害の治療が長期化する主たる原因となっていると認められるもの | 30%~50% |
第Ⅴ類 | 既往症がなければ,受傷の治療の必要がほとんどない軽度であって,結果発生が通常では予想できないと認められるもの | 40%~70% |